|
Levi-Strauss, Claude, "La Pensee
Sauvage", Librairie Plon, 1962. (邦訳:大橋保夫訳『野生の思考』みすず書房, 1976年) |
|
●要旨(本文の参照を中心に) |
|
●呪術と科学:呪術を単純に未開の地のまやかしと思い込むべきではない。徹底的な観察を行い、事物の間にあるもろもろの関係をあますところなく調べ上げようと努めておれば、ときには科学的に正しい結果に到達することもある。呪術的思考とは、「因果律の主題による巨大は変奏曲」なのであって、それが科学と異なる点は、因果性についての無知ないしはその軽視ではなく、むしろ逆に、呪術的思考において因果性追求の欲求がより激しく強硬なことであって、科学の方からは、せいぜいそれを行きすぎとか性急とか呼びうるにすぎない。呪術と科学の相違点は、呪術が包括的かつ全面的な因果性を公準とするのに対し、科学の方は、いろいろなレベルを区別した上で、そのうちの若干に限ってのみ因果性のなにがしかの形式が成り立つことを認めるが、ほかに同じ形式が通用しないレベルもあるとするのである。しかし、呪術を科学の発達の一時期、一段階にしてしまうと、呪術的思考を理解する手段を全て放擲することになる。呪術は本体に先立つ影のようなものであって、ある意味では本体と同様にすべてがととのい、実質はなくても、すぐあとにくる実物と同じほどに完成され、まとまったものである。呪術的思考は、まだ実現していない一つの全体の発端、冒頭、下書き、ないし部分ではない。それ自体で諸要素をまとめた一つの体系を構成しており、科学という別の体系とは独立している。この両者が似ているのはただ形の類似だけであって、それによって呪術は科学の隠喩的表現とでも言うべきものになる。それゆえ、呪術と科学を対立させるのでなく、この両者を認識の二様式として並置する方がよい。それらは、理論的にも実際的にも成績については同等ではない。しかしながら、両者が前提とする知的操作の種類に関しては相違がない(pp.13-18を参照)。 ●具体の科学と「ブリコラージュ」:旧石器時代からの具体の科学は、近代科学と同様に学問的である。その結果の真実性においても違いはない。精密科学自然科学より一万年も前に確立したその成果は、依然としていまのわれわれの文明の基層をなしているのである。具体の科学の知識が思考の面でどのようなものであったかを工作の面でかなりよく理解させてくれるか活動形態が、現在の「ブリコラージュ」(器用な仕事)と呼ばれる仕事である。もともと、「ブリコレ」という動詞は、古くは、球技、玉突き等、非本来的な偶発運動を指した。今日でもやはり、「ブリコルール」(器用人)とは、くろうととはちがって、ありあわせの道具資料を用いて自分の手でものを作る人のことをいう。神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるとはいってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現することである。何をする場合であっても、手元には他に何もないため神話的思考はこの材料を使わなければならない(pp.22を参照)。 ●神話的思索の諸要素:神話的思索の諸要素はつねに知覚と概念との中間に位置する。比喩(イマージュ:心像)と概念のあいだには記号という媒体が存在する。こうして結合が成立すれば、その中で心像と概念はそれぞれ「能記」と「所記」の役割を演ずることになる。心像と同様に、記号も一つの具体的存在である。記号も概念も、それ自体だけに限られることなく、自己以外のものの代わりになることができる。心像は記号の中に観念と同居することができる。神話的思考は、心像に左右されるとは言え、すでに一般化能力をもつものであり、科学的でありうるということなのである。神話的思考も類推と比較をかさねて作業をする。ただし、ブリコラージュの場合と同じように、その創作はつねに構成要素の新しい配列に帰するのである(pp.26-27を参照)。 ●科学者と器用人:科学者と器用人は情報を狙っているものである。器用人は、情報は前もって伝えられているのであって、それを寄せ集め編集することで、あらゆる新しい状況にも経済的に対応する。科学者は今までになかったもう一つの情報を引き出してやろうとするものである(p.26を参照)。 ●トーテム的分類の問題:いつくかの社会集団に名称が与えられると、それらの名称によって形成される概念体系は、その後の人口変動次第でどうかわるかわからない。人口変動にはそれ自身の法則があるが、概念体系との関係において人口変動は偶然的である。概念体系は共時態の中に成立するが、人口変動は通時態の中に展開し、これらは異なる二つの決定原理であって、それぞれが自分勝手に働くものである(p.79を参照)。 ●女性の交換:女性の交換と食物の交換は、社会集団の相互嵌め込みを確保し明白にする手段である。この二種類の交換は同一タイプの方法であり、両者が共在する場合もあれば、どちらか一方があらわれて全機能を果たしたりする場合もある。ところが、外婚制が完全に欠如することはけっしてない。なぜなら、集団の永続は女性のはたらきによってなされるものであって、婚姻交換こそつねに実質的内容をもつ唯一の交換だからである(pp.129-130を参照)。 ●外婚制と内婚制:外婚制には、限定交換、全面交換がある。限定交換は、外婚制の内部で内婚制を模倣したものである。これは自ら閉じた社会と考え、内部交換が自己回帰的な集団に見られる事実だからである。全面交換は、構造を変質させることなしに新しい集団を取り込むことができる。外婚制の閉鎖型である限定交換が、開放型である全面交換よりも論理的に内婚制に近い(p.145を参照)。 ●トーテムとカースト:交換される女性と、同じく交換される物品ないしサービスの間には根本的な相違がある。前者は生物個体であり、他の生物個体による自然の所産である。後者は製造物であり、技術者によって文化的に製造された社会の所産である。職業カーストとトーテム集団の間の形の類似は、逆対照的関係である。差異づけの原理を、一方は文化から借用し、他方は自然から借用したものである。カーストは文化的モデルによって規定され、文化的物品を実際に交換するが、カーストが生物としての人間で構成されているかぎり、女性という自然的産物を自然のモデルによって考えなければならない。生物としての人間はそれを作り出し、またそれに作られる。したがって女性は、自然種のモデルに従って多様化される。自然種の交配ができないように、女性も交換することができない。トーテム集団はこれとは対称的である。トーテム集団は自然のモデルによって規定され、相互に自然の産物である女性を交換する。トーテムとカーストは同じ特性が逆向きに現れたものなのである。カーストは機能上は互いに異質だが、そのため構造上は同質となりうる。機能の多様性は現実に存在するので、相補性もそのレベルで成立する。逆に、トーテム集団は機能上は互いに同質である。その機能は実効性がなく、要するにどの集団も同一の幻想を繰り返しているに過ぎないからである。それゆえ、トーテム集団は、構造上は異質で、規約によってそれぞれが社会種の異なる女性を作り出さなければならないのである(pp.146-147を参照)。 ●野生の思考とは:野生の思考とは、「野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。効率をミめるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考」(p.262)なのであり、今日では、この両者は共存し、相互に貫入しうるものなのである。 |
|
●コメント |
|
本書はこれまで非科学的と見なされていた未開部族のさまざまな儀式等を、共時態の視点から記号と構造を分けて分析し、構造主義の幕開けとなったものである。特にトーテム社会とカースト社会との視点の比較で、トーテム社会における婚姻を女性の交換システムと見なすことで、その構造を科学的に分析し未開の文明と蔑む視点を打破した。また、プリコラージュという構造を形成する要素と全体の相互作用についても言及し、後世への構造主義的視点の先駆けともなった。 |
|
飯盛義徳(2002年6月10日) |