Hayek, F. A., The Use of Knowledge in Society”, American Economic Review, 1945.

田中真晴・田中秀夫(訳)、「社会における知識の利用」、『市場・知識・自由』第2, pp. 52-76, ミネルヴァ書房, 1986.

●要旨とコメント

本論文においてハイエクは、「合理的な経済秩序の建設」を、計画経済と市場経済における「知識」にかんする本質的な相違に着目することにより明らかにしようとした。彼は、経済における有用な知識は、(社会主義、あるいは市場的社会主義経済の)中央の計画当局が期待するような標準化された情報や知識として入手できるものではなく、ある特定の「時と場所」の特殊的状況において変化するようなものであると述べる。このような「時と場所」という性質を帯びた情報や知識を最も知るものは、実際にその状況の中で生産や取引をおこなう当事者であり、決して中央の計画当局が知りえるものではないと言う。そして、ハイエクは、市場とは「完全市場」を前提とするものではなく、市場に参加する人々が、財・サービスの品質や価格に対して完全な知識をもっていると仮定することを非現実と主張する。

ハイエクにとって市場とは、「関連のある諸事情の知識が多くの人々びとのあいだに分散している体制」であり「価格がさまざまな人々の行動を調整する役割を果たす」ような自然発生的な慣習的行為・制度を指す(p.70)ものである。その場合の問題は、市場の管理ではなく、いかにして「資源の利用を誰か一人の管理能力の範囲を超えて、いかにして拡大するか」、またいかにして「個々人にかれらの為すべきことを誰かが告げる必要なしに、望ましいことをさせるような誘引を与えるか」である。

さらに、このようなシステムは「人間がそれを理解することなしに偶然に出会って見つけたあとに、利用することを学んだ」(p.70)形成物のひとつであったと指摘する。市場とは、社会に分散している不完全かつ主観的知識を持つ人々が特殊状況において具体的な取引を行う、歴史的慣習・制度によって自生した場である。すなわち、市場は慣習や制度の土台を要請するものなのである。

 

ハイエクの主張は、本質的に言えば「市場の自由化」を唱える点において社会主義(またはファシズム、ケインジアン)を批判するものである。その背景は、人間の情報能力に関する本来的な限界にとどまらず、「市場」が、人間が意図的に設計したものではなく自生的に発展してきた制度ないしは慣習的な場であるという主張にあった。すなわち、経済秩序は効率的な資源配分の結果として評価されるものではなく、そのプロセスの中で参加者が合意・了解しているような習慣的・制度的手続きから表出するものである。そして、ハイエクは、市場を含めた「文明の基礎」に慣習や制度の裏付けと自生性を強調する。ハイエクにおいては、市場が、歴史によって進化また淘汰された慣習や制度(すなわち自由主義の思想)を土台として自由な競争が裏付けされることによって、はじめて、その合理的な経済秩序が得られるのである。

 

服部基宏 (2002年6月16日)