沼上幹、「われらが内なる実証主義バイアス」、組織科学、Vol.33、No.4、2000年、32-44ページ.
2004年5月31日 佐々木裕一
筆者は「人間が日々直面して素朴に知覚している経験的事実こそが知識の源なのだ」という経験主義と、「そのような経験的事実は、その背後にあるメカニズムが生みだした結果に過ぎず、人間は理性を手がかかりにしてその背後のメカニズムを知ることができる」という合理主義の立場を対立させてみせる。その後、経験主義の立場だけでは「なぜ」に答えることができず、「なぜ」に答えるべくメカニズム解明に挑むのならば合理主義の立場も必要と述べ、両方の立場を認める多様性やその相互作用に期待する。
では、なぜ「なぜ」に答えることが必要なのか。ここで筆者は「生き別れには嫁いでも、死に別れには嫁ぐな」という民間伝承を例に挙げる。無作為抽出で得られたある程度の規模のサンプルについて、嫁いだ女性の満足度を比較調査すれば経験的な妥当性は確認できる。しかし仮に民間伝承の妥当性が確認できたとしても、そのメカニズムが解明されなければ無用かつ不当な差別を生むことが考えられ、メカニズムの解明が必要だと筆者は説く。
実際の経営学の研究者コミュニティにおいては実証主義バイアスが生じているというのが筆者の分析である。たとえば、「イノベーションに積極的な企業は高い利益率を達成する」という仮説に対して、イノベーションに対する積極性という変数と、利益率という変数が多数のサンプルにおいて経験的妥当性を持つというような研究が高く評価されるというのである。ここでは、なぜそのような結果が生まれるのかという問いは立てられず、イノベーションの積極性を表現する変数、分析方法やデータの信頼性についての批判や精緻化が議論の中心になっているというのである。つまりオリジナルデータを用いたリサーチであれば、理論的アイデアが乏しくても「事実発見として価値がある」と認められやすいのに対して、文献を通じた研究によって「理論的に新しい切り口がある」と認められることは極めて難しいということである。
最後に、筆者はこの状況に対しての「なぜ」を分析する。それによれば、@1970年代末から展開されてきた文献研究否定運動、Aほぼ同時期から活発化してきた経済学的な企業研究、B方法論的議論に関する理解の混乱、C近年の大学院大学化による大学院生の急増がその原因だという。
■ 論点・コメント
・ 私の立場を述べる。筆者と同様に、経験主義的な立場と合理主義的な立場の相互作用が理想との見解に同意。また、「なぜ」という問いを立てることと理論についての貢献を重視する立場にも賛成。
・ ただしそのような立場をとったとしても、研究成果の表現の仕方として、仮説検証型の論文にはさほどの価値を見いださない立場(だから「規定演技」の学会論文誌投稿論文にはストレスが溜まる)。なぜなら既存理論から推論を含まずに演繹された仮説を構築することは我々のやっている新しい分野ではほぼ不可能。あるいは戦略的に事象を矮小化して捉え既存成果にすり寄ることが必要になる。また推論を含んだ仮説を構築し、それが証明されたとしても推論を含んでいるため、その現象を生んでいるメカニズムが証明されることにはならない。
・ 私が博士論文というアウトプットを想定したときに意識するのは次の3点。叙述的であること(現象の示唆することの広がりを表現するため)。解釈的であること(理想的には既存の理論ではむしろ説明できないことを強調し、自分なりの解釈を加えメカニズム解明を志向すること)。歴史的な観点を持つこと(自分の研究はある一時期の現象についての説明にしかすぎないという立場をとること)である。