Lessig, Lawrence, "Free Culture: How Big Media Uses Technology and the Law to Lock Down Culture and Control Creativity," Penguin, 2004.
(邦訳:山形浩生・守岡桜、 『FREE CULTURE』、翔泳社、2004年.)
2004.9.27 折田明子
要旨
本書は、インターネットそのものに関する議論よりも、インターネットがインターネットを越えて「自由(フリー)な文化」に与えた影響について議論している。フリーな文化は、他人が足がかりにするものをオープンにしておく文化である。この「フリー」が失われつつある経緯が事例・判例と共に書かれている。
第一部は海賊行為について述べられている。著作権はもとより刊行のみを扱ったが、インターネットの誕生とともに、誰かの作品を「再発行」したり「発展・変化」させたりすることとの境界がなくなった。デジタル技術の発展は、文化を「読む」と同時に「書く」ことを理解する創造性を解放したが、法はその行動を規制するようになった。海賊行為のキーポイントは「著作者から利益を奪う」利用とされるが、全ての海賊行為が間違いとは言えまい。共有による有害さと有益さがどの程度なのかを評価すべきだ。
第二部は財産についてだ。プレイヤーは、創設者、記録者、変換者、そしてコレクター。シェイクスピアの作品をめぐってイギリス議会は、パブリック・ドメインの概念を打ち立てた。一方、記録者としては、フェアユースが実質的に認められず、4秒あまりの映像使用料を納めねばならない状況が紹介される。デジタル技術の発達は、変換という作品づくりを可能にしたものの、誰にどんな許可をとらねばならないかは弱いドクトリンに拠っている上、法的な交渉コストは非常に高い。デジタルアーカイブを可能にしたコレクターは、過去を蓄積するコストを大きくサがたものの、デジタルコンテンツ自体が誰かの財産であるという意味では、自由ではない。財産に対するコントロールは、法によってだけでなく、技術によっても制限される(例:アドビの電子ブック)。技術がフェアユースを潰し、コードが法になる。
第三部は「謎」だ。クリエータもイノベータも抑圧される。デジタル技術によって作られた作品は、現行法の下では基本的に違法である。法の不透明は創造性をアングラに追いやってしまう。インターネットラジオは、技術的に可能でも法律で制限される。日常的にダウンロードが行われている現状に対し、必要なのは数千万人を「犯罪者」とみなすことではなく、法的な禁止事項の必要性を考えることだ。
第四部は「バランス」だ。エルドレッド裁判(ソニー・ボノ著作権延長法が憲法違反であるという主張)について、主に敗訴の分析がなされている。著作権法の手続きが「弁護士」or「ない」という極端な現状が創造性に負担を強いているとし、価値をみとめ必要とする人がワンクリックで登録する仕組みを提案している。
コメント
インターネットによって変わる未来、というよりも、インターネットをはじめとしたデジタル技術を前提として、法・テクノロジ・人間のゆがみを指摘している。本書の前半では著作権についての丁寧な説明がなされ、後半では筆者が実際に経験したことが書かれているが、中でも真ん中の第三部に著者の持つ疑問が凝縮されているように感じた。法律の役目は犯罪者を増やすことなのか?そもそも利益を守ろうとした法律が、全体としての利益を損ねているのではないか?技術も法も行動の制約条件になりうる中で、万人がなり得るクリエータやイノベータの自由を確保するためには、何から手をつけるべきか?法律を人が「使う」という視点を取り戻すことがなければ、我々は技術と法の規制にばかりからめとられるのではないか。