Lessig, Lawrence, "Free Culture: How Big Media Uses Technology and the Law to Lock Down Culture and Control Creativity," Penguin, 2004.(邦訳:山形浩生・守岡桜、 『FREE  CULTURE』、翔泳社、2004.) 


【要旨】

本書において、著者レッシグは、インターネットのアーキテクチュアが開いてしまった文化創造に関する新しい可能性が、いまアメリカのメディア企業がしかける著作権戦争によっていかに極端にまで封じ込められ、多大な文化的損失が生まれつつある実体を、アメリカ法制度と政治メカニズムの欠陥として克明に描くとともに、著作権にまつわる「全権非留保」対「全権留保」の両極端の主張に、「フリー文化」の必要性を対置し、解決の糸口を提案している。

レッシグは、著作権の保護と共有のどちらも重要だと主張する。「自由(フリー)な文化とは自由市場と同じように、財産でいっぱいだ。・・・でも財産が少数特権者のものになったら、自由市場がゆがむのと同じように、自由な文化だってそれを定義づける財産権が極端になりすぎればおかしくなる。」(p.12)著者が言うように、そういう極端化に反対して本書は書かれた。レッシグは、これまでもパブリック・ドメインにある創造物のアレンジから、例えば、ディズニー映画が生まれたこと、日本の漫画の同人誌が法規制を受けることなく広まっていることなどをとりあげ、文化の創造が維持されるためにはているのではないかと分析する。そのように、現在の体制の中でもコンテンツのやりとりを自由に行い、文化創造を枯渇させないものとして、フリー文化が必要だと説く。

レッシグが問題としているのは、技術が進化しているにも関わらず、法律が変わっていないという点だ。そこで、「歴史上、文化の発展をこれほど少数の人々がここまでコントロールする法的権利を持っていたことは未だかつてないのだ」(p.205)と警鐘をならす一方で、判例を引きながら、「技術変化に対する法の反応について二つのお話をした。片方では常識が勝った。もう一方では常識は遅れてやってきた。両者のちがいは、反対勢力の持つ力だったー現状を擁護するために戦った人々の持つ権力だ。どっちの場合にも、新技術が古い利益を脅かした。でも、・・・自衛するだけの力を持っていたのは、片方だけだった。」(p.298)として、法の機能が時代的制約を受ける以上、常識的におかしいことがおかしいとして否定されるような状況を再構築しなくてはならないと主張する。

本書のコアは、著者がかかわった裁判、著作権延長を認めたいわゆる「ミッキーマウス保護法」の違憲性を問うたエルドレッド裁判の経過と敗訴の原因分析の部分であろう。(p.247以降)ここで、レッシグは、著作権延長がどんな実害をもたらしているかについての論証を怠った訴訟戦術上の失敗をみとめつつも、実は、最大の問題は、米ウォルト・ディズニーなどのメディア企業が、巨額の政治献金とロビー活動で権利保護を図る「永久運動機関」が米国議会内に存在するからだと指摘する。「アメリカが持っていた常識のバランス感覚が消滅している」、「常識は、反発しなくてはならない。常識は文化を自由にするべく行動しなくてはならない」と呼びかけ、比較的長い「あとがき」で、具体的手段として、登録制・更新制を採用した著作権制度改定や、クリエティブ・コモンズという概念を提案し、実践を促している。

 

【コメント】

レッシグの主張は、情報化社会における文化創造のためのきわめて実践的、現実的ソリューションである。訴訟社会のアメリカに特有の問題とばかりはいえない状況が日本にも起きている点で、大いに参考になる。ただし、市場経済のメカニズムの中で、クリエティブ・コモンズがどういう位置を占めていけるかについての経済学的側面からのアプローチが今後必要になってくると思われる。さらにまた、著作権あるいは知的財産権の概念そのものへの再考も「フリー文化」についての議論から生じてくるはずだとも考えられる。

2004927日 織田勝也)