Hayek, F. A., “The Use of Knowledge in Society”, American Economic Review, 1945.
(田中真晴・田中秀夫(訳)、「社会における知識の利用」、『市場・知識・自由』第2章, pp. 52-76, ミネルヴァ書房, 1986年.)
2004.11.15 折田明子
要旨
合理的な経済秩序の建設において、情報や知識が想定されている問題は、そもそも社会が直面する問題ではない。利用しなければならない知識は、集中・統合して存在しないという。経済は、2つの種類に分類できる。中央集権的な計画に基づく計画経済および、多数のばらばらの個人による競争(非集権的計画)であるが、どちらが効率的かは、どの制度により期待できるかにかかっている。
有益な知識は、中央で計画されるものよりもむしろ、それぞれの人による独自の知識にある。知識は科学的知識だけが唯一のものではなく、組織されない、時と場所の特殊状況についての情報が存在する。個人が自分以外の人に優位を持つのはこの点であり、それぞれの人は、有益に使用されうる独特な情報を所有する。その結果、意思決定は、情報を持つ人に委ねられるか、もしくはその人の積極的な協力が必要になる。知識を所与とする考え方からは、より良く知識を身につけた人が逆に軽蔑されることになりかねない。
経済的意思決定は、長期の間隔を置いてのみ必要とされるのだろうか。競争的産業においては、費用の高騰などの時々の状況に対して不断の戦いを必要としている。ではなぜ経済学者は、耐えざる小変化を忘れがちなのか。安定性を示す統計的集計量がそのベースになっていることが理由である。この集計量に入りえない知識が、すなわちその性質上、中央当局にも統計的形式では伝達できない知識だ。中央当局の統計は、事物間の比較的小さな相違を捨てており、こうした知識や変化が見えてこない。
差異を同じ種類の資源として一括する一方で、諸決定を「現場の人」に残しておけるような方法を見つけねばならないという課題が発生する。だが、社会の諸問題は、現場の人の知識だけをベースにすることはできない。より大きなシステムに意思決定を適合させるために情報を伝達する。情報の中には、自分に影響はあるが、知る必要はない情報があるからだ。市場の成員の誰かが「全分野」を見渡す必要はなく、それぞれの個々の視野が数多くの媒介を通して、すべての人に伝達されるために十分重なりあうことで、全体が市場として動くのだ。価格システムは情報伝達の機構であり、個々の管理能力を超えて正しい方向へ動いていき、やがて分割された知識の調整された利用としての分業につながる。
コメント
個人が独自に持つ知識の価値をユニークなものとして認めつつも、その1つに依拠する意思決定ではなく、より大きなシステムに適合させていくという流れは、インターネットが活用される現代においても何ら違和感なく受け入れられるものだ。特に、個々の視野が重なり合うことで動くという市場のモデルは、むしろインターネットコミュニティ内における、個々人の情報発信と重なるように思えた。