Barnard, Chester I.,"The Functions of the Executive", Harvard University Press, 1938.
(邦訳:山本安次郎・田杉競・飯野春樹訳『新訳 経営者の役割』ダイヤモンド社, 1956年)
【要旨】本書は、経営組織の基礎理論を確立した古典的ともいえる著作である。未完の論点も含んでいるがゆえに、その後の研究を促し、現代の組織理論の成立に多くの貢献をなした。
本書は、4部構成であるが、大きくは、前半の協働と組織の理論的展開の部分と、後半の公式組織における管理者の職能と活動方法の研究の部分に分かれる。
前半――協働は、生物としての個人単独では達成できない目的を達成しようとする個人の欲求に根ざしている。他の個人が参加するにつれて、協働は急速に、普段に変化する体系(システム)になる。協働という概念から、「二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系」という組織の定義が導き出される。協働は、組織目的の達成という意味で「有効的」でなければならず、また個人動機の満足という意味で「能率的」でなければならない。
後半――管理者は、協働体系をその環境に関連付ける過程と、個人に満足を提供する過程を総合し、相互に適応させなければならない。組織の存続に必須なのは、協働意欲、伝達能力、目的の存在と受容である。管理職能は、したがって、伝達体系を提供し、協働意欲を維持し、そして組織目的のたえざる保全をはかることである。この管理能力の研究は、組織的活動の調整と目的の定式化とに品位と道徳性を与える意思決定を確認する人格的能力としてのリーダーシップの考察にいたるのである。
管理職能との関連でとりわけバーナードが唱えているのが、権威受容説である。
「一つの命令が権威をもつかどうかの意思決定は受令者の側にあり、『権威者』すなわち発令者の側にあるのではない」(p.171)として、権威は命令が受け入れられない限り成立しないとし、通常の上位権威説を仮構(フィクション)であるとして批判する。つまり、協働の場面での命令伝達とその受理という相互行為においてすらも、個人の行為となって実現しないかぎり意味がないとした。しかし、上位権威説は確かにフィクションであるが、このフィクションは「命令に黙従することを可能にする」(p.178)もので、それが現実において行為を組織するために機能することを認め、このフィクションの必要性について以下を指摘する。(1) 上位権威を認めることで、決定の責任を上位へ委譲しうる。それゆえ、行為した自分の責任は上位に帰せられ、自分が引受なくとても良い。
(2) 上位権威によって、重要なのは組織の利益だという利害感が、客観化される。この客観化された(規範化された)利害感は、協働の参加者の動機に働き掛けて、個人的利害より組織の利害を一層優先する傾向をもたらす。(p.178)
バーナードは、人間協働の究極の到達点を「合一」という語で表現している(p.296)。しかし、この協働性の最高形態へ至る過程については、自由と非自由との、人間個性の発露(自由意思)と組織された体系の個人を超える自律性(決定論)との、相克とパラドキシカルな通底が存在していることを指摘し、その解決には「信念」の表明を必要とすると述べて終わっている。本書の末尾にプラトン『法律』(四編四章)からの引用をおいたのは示唆的だ。
【コメント】アメリカ20〜30年代の経営的実践から書かれた著作であるが、古典といわれるゆえんは、含まれる論点が時代を超えて議論を発展させているからであろる。例えば、日本とアメリカの企業活動の比較で、<組織機械論のアメリカ>と<組織有機論の日本>と捉える議論があるが、本書は、改めて、こうした企業活動の違いの奥にある組織の本質を考察しようとするとき、一度立ち返えってみるべき地点を提供している。その上で、最近のネットワーク化に基づくオープン経営や各種コラボレーションの展開を分析するに際し、バーナードの方法論がどこまで有効か否かの検討を行うことは、現代の経営学のパラダイムを再考するために重要な示唆を与えてくれるものと思われる。 織田勝也(2004年6月14日)